お知らせ

 オリンピックで金メダルを獲れば、一生が保証されるという
 国があるのに比べて、日本では大手企業のスポンサーがつく、
 ごく一部の選手以外は一生安泰とはいえないのが実状です。

 そんな中、卓球やアーチェリーなど、マイナーな競技の選手まで、
 スポーツ支援、選手育成に一役買っているのが、
 子供服メーカーのミキハウス(三起商行)です。

 開催間近のパリ五輪では在籍中、8人が内定しています。
 また、元プロ野球選手の桜井俊貴投手や
 モータスポーツの野田樹潤選手などにも支援の幅を広げ、
 従来の枠組みにとらわれず活動を続けている事でも有名です。

 ミキハウスの創業者 木村皓一氏は、
 家業である婦人服メーカーの跡取りでありながら、
 独自の道を歩き始めます。

 同じ婦人服だと、商売敵になるのでまずいと思い、
 子供服にターゲットを絞ります。
 既に、ベビー、幼稚園、小学校低学年、
 それぞれの年代のブランドがあったのですが、
 ベビーと幼稚園の間の年代(1~3才)の子供服が
 ないことに目をつけたのです。

 当時は女性向けのファッション誌が創刊された時期でもあり、
 ファッションに対して関心が強くなってきている時期だったので、
 子供向けの高級ブランドを目指すことに決めます。
 といっても、先立つものも売る相手もありません。
 当てもなく、サンプルを持ち九州へ営業に出かけるのですが、
 当然門前払いの日が続きます。
 起死回生にとセールストークを見直して小倉の小売店に飛び込むと、
 見事的中、取引を取り付けることが出来たのです。

 その後、順調に取引は増えるのですが、
 お金がないため商売を大きく出来ない。
 作ったものは、すぐに売り切れが出る程ですが、
 なかなか生産が間に合わないのです。
 そのうちに、同業者がマネをして、大量に作って売り捌いてしまうのです。

 小売店への卸売りは、順調に伸びてきましたが、
 ひとつの壁が立ちはだかります。
 ミキハウスでは、早くから「トータルコーディネート」
 を目指して商品作りをしていたのですが、
 お店が欲しいものだけが店頭に並び、メーカーの立場では限界でした。

 京都のショッピングビルの一角のテナントを皮切りに、
 自らの手で店造りから、商品陳列まで企画できる、
 小売業へ進出することにするのです。
 これが80年代の一大ブームを起こすきっかけとなり、
 ミキハウスは急成長することになるのです。

 木村氏が歩んできたのは、起業家の王道といえるような
 道筋のように思えます。
 お金も信用も無い最初の頃は、自らが小売店へ足を運び売り歩く、
 労力をかけてお金を稼ぐようなものです。

 信用がついてくると、小売店の方から買いに来てくれるようになるので、
 注文をとりに回らなくてよくなる代わりに、
 商品の開発と生産に力を入れるようになります。

 同業者が同じような商品を作り出すと、
 差別化のため、独自のブランドイメージを作らないといけなくなります。
 そこでは、独自の店舗や広告で、
 ブランドをアピールすることにお金をかけることになるのです。

 起業を「一か八か」の博打のように思っていらっしゃる方には、
 お気の毒なお話ですが、小さな事業を大きくするには、
 いくつものステップを踏んでいかなくてはなりません。
 気持ちが焦るがあまり、ひとつでもステップを飛ばしてしまうと、
 取り返しがつかない、大やけどを負うことになります。
 たまに才能とタイミングに恵まれる幸運な人が登場するので、
 目を奪われがちですが、事業もスポーツも根本は同じ、
 一つ一つステップを登っていくことです。

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